京都に住んで一年目の私。
二年目の私。
六年後経った私。
京都に来た最初の頃は、自己紹介の時に必ず「東京から来ました」と言っていました。それから数ヶ月、数年経つと「東京から来た」という言葉は地雷だと知り、「関東から来た」に変わりました。しかし、「関東から来た」もウケがよくないことから結果出身地は何も言わないことに決めたのです。
なぜこのようになったのか。今回は京都と東京の関係について実体験を元に紹介したいと思います。京都人から東京人ってどう思われているのだろうと気になる方の参考になれば幸いです。(所々で関西弁を使っていますが、六年京都に住んだわりに関西弁が下手くそです。お許しください)
ほんまもんの東京人?
「お兄さん。関西の人じゃないわね」
京都人の言語センサーは半端じゃない。絶対言語感でも持っているのかと疑うほど、僅かばかりのイントネーションの違いを読み取ってしまう。
「はい。東京から来ました。」
京都人の奥様は少しだけ驚いたが、「東京?大都会やね。」と微笑みながらはんなり口調で返した。
「江戸川区なので、そこまで大都会ではないです。」
「ヘェ〜江戸っ子なんやな」
(皆さま誤解している。別に江戸川区に生まれたから江戸っ子というわけではない。江戸川区は下町は下町だが、インド人が非常に多い街で異国文化漂う都の辺境地。「てやんでぃ」より「ソーリー、ソーリー」の方がよく使う)
「そやけど、お兄さんはほんまもんの東京の人違うやろ?」
ん?ほんまもん?ほんまもんの東京の人とは?
東京の人に本物と偽物が存在したことを私は知らない。東京に住んでた頃、「お前は偽物の東京のひとだ!」と言われた経験もなければ「お前は本物の東京のひとだ!」と言われた経験もない。
何秒間か考え「ほ、本物だと思います・・・。」と小さな声で答えた。
なんでも、奥様には東京の友達がいるらしく、その友達と僕の話す言葉のイントネーションが若干違うそうだ。確かに私は、子供の頃からサ行の発音がおかしくて、度々親や先生から注意を受けることがあった。
その事を奥様に説明すると「そうなんや〜。」と笑って納得してくれた。ただ、私の頭の中では「ほんまもん」の言葉がどうにも引っ掛かって離れずにいた。
私はハーフなのか?
ある時、仲良くなった京都出身の男性(建築系)と飲みに行くことになった。
その方は建築系には珍しくヤンキーっぽい感じではなく、真面目そうな優しい好青年だった。後輩の私に気を使ってくれる稀有な方で、上下関係がうるさい建築業界にとってオアシスのような存在だった。
一方、私は先輩と飲みに行っても気を遣わないことからよく注意される無頓着な男。その日も一切気の利かない私だったが、その方は嫌な顔1つせず、仕事に関する色々な話を聞いてくれた。仕事の話と言ってもほとんどが畳業界の先輩の悪口で、私が一方的に話す悪口を聞いてもらっていた。
次第にお酒も進み、段々とプライベートな話になった時、その人が「気になっていたことがある」と質問してきた。
「じぶん、どこ出身なん?」
「東京です。」
「親も東京出身?」
おや?親はどうでも良くないか。と思ったが、まぁ言って困ることもないし、と思い「両親とも東京出身です。ただ父親が伊豆七島出身なので本島からはちょっと離れていますが」と答えた。(ちなみに伊豆七島は東京都に属する)
「じゃあハーフなんやな」と笑って言われた。
ん?ハーフ?どこと、どこのハーフ?伊豆七島は外国じゃないし、調布からセスナに乗って20分〜40分くらいで着いてしまう。ちょっと意味不明だと思った。
だがその時、いつぞや京都の奥様から言われた「ほんまもん」の言葉が思い浮かんだ。そして、ほつれた糸を紡ぐように私の中で一つの答えを見つけた。おそらく京都の人にとって「ほんまもん」は根っからの東京人かどうかを意味する言葉で、片方の親が伊豆七島出身であろうが、千葉出身であろうが、埼玉出身であろうが、神奈川出身であろうが、東京出身でなければハーフとされるのかもしれない。
京都では、京都で生まれ育った根っからの京都人同士で結婚する方達が今だに多いと聞く。代々その土地を守り、命を繋いできたという歴史を背負ったら、それをアイデンティティとしている方もきっと多いはずである。であれば、他府県同士の結婚をハーフだ!とか、ほんまもんじゃない!とか言葉が出てきてもおかしくは無い。京都という地域は伝統を保守する気持ちが強い場所だから、東京のように地方からやってきた異県民、異国民ごちゃ混ぜの地域性は相反して理解し合えないのかもしれない。なんて思った。
そう考えた時、ある妄想に駆られてしまった。もし私が根っからの京都人の女性を愛してしまったら、女性の両親は何と言うだろう?ハーフにはさせないと反対するだろうか。
日本版ウエストサイドストーリーの結末を予感しながら、今宵も京都は素晴らしく、輝いていると思うのだった。
東京のひとは〇〇
最近の若者は挨拶ができない
最近の若者は辛いとすぐに辞めてしまう
最近の若者は日本語を正確に使えない
”最近の若者は〇〇”シリーズのクリーンナップ(クリーンアップ)紹介。おじいちゃま達の口癖集です。
若者からすれば迷惑な話だ。私はちゃんと挨拶するし、辛いことだって我慢して、それなりに継続している。まぁ日本語は怪しいけど・・・。
一方、京都に住んでいた頃、最近の若者は〇〇シリーズよりも、よく耳にしたシリーズがある。東京のひとは〇〇シリーズだ。
・東京のひとは喋り方が気持ち悪い
・東京のひとはノリが悪い
東京のひとは冷たい
京都の人にとって東京の人は冷たいと感じるらしい。「何が冷たく感じるの?」と京都の人に聞くと、話し方と心と言われた。完全に偏見である。
現に、親切な人が多いと思う都道府県ランキングで東京は10位。京都は神奈川と同率で14位だ。冷たいのはどっちだ?って話である。
ただ、親切かどうかなんて個々の主観にまかされる。昔からお節介おばさんはクソ迷惑!と言われるように相手の受け取り方で変化するものだ。
だから言ってしまえば”東京のひとは冷たい”も同じ論理があてはまる。東京のひとは冷たいかどうかなど個々の主観による判断になる。
ただし、標準語が京都の言葉に比べて冷たく感じるのは理解できる。京都の言葉は本当に優しい。透き通った透明感に体の芯まで染みてくる。まるで京料理に出てくる出汁のよう。
大阪の言葉とは違う!という京都人の主張も一部頷ける。とはいえ京都のお好み焼きは表面が綺麗でもひっくり返すと丸焦げだったりするから注意が必要だ。
東京のひとは喋り方が気持ち悪い
「マジで〜。ウケる〜。ちょーヤバいんだけど〜。っていうかさ〜マックいかな〜い。」東京のひとって全員こんな喋り方なんでしょ?。と京都の人に出会うとけっこうな頻度で聞かれる。
「そんなわけない」の反論と同時に、京都の人が東京の言葉を真似するときのイントネーションは、本当にバカにしてると思う。
「なんでやねん」のイントネーションが違う!関西弁をバカにしてる!と関西の人はよく言うが、悪意のつまり具合は比にならない。とはいえ、似たようなイントネーションで喋っている東京の若い子はいるのかもしれない。テレビを見てても「すごい喋り方だな」と思うことは何回かあった。
ただそれは一部の若者だ。全員じゃない。実際、私の中学校でも高校でもそんな喋り方をする子は、四十人近いクラスで二人とか三人くらいだった。きっとクラスのみんなは、バカだな!アイツって思ってたに違いない。だから心当たりがある人は、マジで直したほうが良いと思う。っていうか将来ちょーヤバいから。
東京のひとはノリが悪い
私が高校生のころ、野球部のチームメイトにノリが悪いやつがいた。みんなが順番にギャグを披露してるのに一人だけ「どうすればいいの?どうすればいいの?」と連呼して何もしない。あの頃は「ノリが悪いな〜」と彼に対して否定的な印象だったが、今思えば「やりたいやつがやればよかっただけ」と率直に思える。
むしろ場の空気を壊さないように相手の力量を考えて振ることの方が大事なことで、技術が伴う難しいことなのかもしれない、と思えるようになった。とはいえ、こんな気づきを得たのは京都に住んで何年か経った後のことだ。
京都では以外にも「笑いのノリ」を大切にしている人が多い。もちろん個人差はあるだろうが、東京より圧倒的に多いのは間違いない。だからといって常に笑いのノリを求められるわけではなく、主には飲み会。特にグループでの飲み会で初対面の人が多いときに笑いのノリを求める人が多い。
正直、本音は嫌々だが、基本的にはノってあげる。ここは京都。郷に入っては郷に従えである。とはいえ、ノってやってるのに「東京はおもんない」と生意気に評価してくるやつは如何なものか。もっとタチが悪いのが「東京の人はおもんない」をネタにして、みんなの笑いを誘おうとする人だ。そんな奴には「もう大人しくノってやるものか」とキラーパスやスルーパスで応戦する。
あんまりやり過ぎると今度は「東京のひとはノリが悪い」と言われてしまうので、作り笑いでやり過ごす。京都の人に囲まれての飲み会はまさに東京を背負っての戦いなのだ。
最後に
京都は不思議な街だ。
京野菜、京町家、京料理、京畳など何でも京を付けたがる変わった街だ。京都のひとたちは自分たちの生まれた街をすごく愛している。愛し過ぎている。
ぜひ”京都のひとたちは〇〇シリーズ”に「京都のひとたちは京都を愛してる」を付け加えることをおすすめする。
最後になりますが、noteにも京都であった実体験のお話を投稿しています。読んでもらえたら嬉しいです。
▼京都と滋賀の関係についてはこちら:京都と滋賀は仲が悪い?|実体験を元に滋賀と京都の関係を紹介
読んでいただき、ありがとうございました。