私は『本物』『偽物』という言葉が嫌いだ。
しかし、世間では「これは本物だ」「これは偽物だ」とすぐに使いたがる人たちが大勢いる。そこで今回は、何故本物と偽物という言葉は使わない方がいいのか紹介する。
本物とは何か?本物や偽物を使いたがる人に言いたいこと
そもそも本物とは何か。
本物とは何か?
1.にせものや作りものでない、本当のもの。また、本当のこと。
2.見せかけでなく実質を備えていること。本格的であること。
goo辞書では本物をこのように定義している。この定義自体に何か異論があるわけではないが、「偽物や作り物でない」「本当のもの」「実質を備えている」「本格的である」どれを取っても、えらく抽象的で何が本物の定義に当てはまるのか曖昧な表現になっている。
これでは何を本物とし、何を偽物とするのかわからない。つまりgoo辞書の解説から本物とは何かを考えると、本物とは主観的な物という事になってしまう。
では客観的な本物とは存在しないのか。
私が思うに客観的な本物とは、主観的に感じた本物を「そうだよね。これが本物だよね」と論者が集まって語っているに過ぎない物だと考えている。
本物の音楽とは?
例えば、音楽。
「これが本物のロックだ」「あのバンドは〇〇のパクリだから偽物」と言う人がいる。その意味がわからないと言うと「お前は音楽を知らない。ロックを知らない」と怒られる。
私はここに疑問を感じる。
今街中で流れている曲の根幹には音楽の父と呼ばれるバッハ、音楽の母と呼ばれるヘンデル、西洋音楽の歴史がチラついてならない。
それはロックとて同じである。
もし、”あのバンド”をパクリ呼ばわりするのなら全ての音楽はパクリになってしまうのではないか。と私は疑問に思う。
とはいえ、アーティスト側が「俺の音楽こそ本物だ」「俺のロックこそ本物のロックだ」と言うのは自分の作品を肯定する至極当然の想いで、別に批判すべきことではないとも思う。
つまり、アーティストでも無い人が『本物の音楽』『偽物の音楽』を語っているのがむず痒いのだ。
本物の芸術とは?
(ここで言う偽物は贋作という意味ではない)
また、絵画に関して同じことが言える。
昔、アンリ・ルソーという一人の画家がいた。この方の作品は独創的で芸術性の高いものであったが、当時の民衆には評価されなかった。むしろ「子供のお絵描きだ」とか「お粗末な技法」だとか言われ、馬鹿にされる始末であった。
ところが、ピカソにその芸術性が認められると彼を讃える民衆が一気に増加し、歴史に名を残すほどの画家として大成することになる。
私はこの話を知って、芸術を評価するのは芸術家だけにした方がいいと思った。もし、ピカソが彼の作品を認めなかったらアンリルソーの絵画は全て燃やされていたかもしれない。黒い炭になって塵と化していたかもしれないのだ。
後世に影響を与えるような作品を闇に葬ってきたのは、芸術を知ったかぶりした半端者たち。だからこそ、芸術を評価する時は、慎重且つ論理的で無ければならない。そして、責任が伴うことも承知の上で語るべきだと私は思う。
本物の日本酒とは?
音楽や絵画に関しては『本物』と『偽物』呼ばわりする場面に出くわす機会も少ないかと思う。しかしながら生活の中にも本物と偽物を言いたがる人たちは大勢いる。
その代表例が日本酒だ。
本物の日本酒と言えば火入れをしない、濾過をしない原酒こそ本物の日本酒だと酒好きは語る。それを酒蔵の職人さんが語るなら未だしも貴方たちが語るな!といつも思う。
火を入れること、濾過をすることは別にサボることが目的の製造工程ではない。色合いや香りを整えて、長く美味しい状態を保つことを目的に職人さん達が考えた方法なのだ。
ただ酒飲んで酔っ払っている貴方達が口軽く「本物だ」とか「偽物だ」とか評価など出来るわけもない。十四代の生詰だって飛露喜の生詰だって最高の日本酒の一つだ。
日本酒に美味いか不味いか。口に合うか合わないか。美味しい飲み方か、不味い飲み方かは確かに存在するが、本物か偽物かは無い。少なくとも本物の日本酒か、偽物の日本酒か語っていいのは、酒蔵の職人さんだけだ。
とはいえ、無濾過生原酒は日本酒本来の味を味わいたい方にはお勧めである。香りが強く味わい深いと個人的には思う。
本物の畳とは?
私が働く業界。畳業界にも本物と偽物という言葉を使う人は大勢いる。
では、本物の畳とは一体何か。
藁床に国産の藺草を縫い付け畳縁で加工した物。これが本物の畳だと本物論者は口にするが、何をもって本物と言っているのか畳職人である私にもわからない。
畳と言えば藁床でしょ?畳と言えば国産の藺草でしょ?
これは貴方の感想です。藁床と国産藺草を愛して下さることには感謝致しますが、藁床と国産藺草の畳である事と本物であることに相関関係はない。
おそらくは、昔からの畳=本物だと考えた上の結論だと思うのだが、畳の初期時代はマゴモという草を何枚も重ねて畳表を張り付けた家具的なものであった。
もし、昔からの畳が本物だと言うのなら藁床と国産藺草で作られ、敷き詰められた現代の畳は全て偽物という事になってしまう。
だから、そもそも本物と偽物という言葉を使うこと自体無意味なのだ。
時代に応じて畳は変化してきた。どの時代にどのような形の畳が生まれようが、それが畳であり本物なのだ。
現在では和紙や化学表を使った色彩豊かな畳表が販売されている。藁床ではなく、クッション性能に特化したボード床やお茶や炭が入った床、床暖房に対応している床なんかが販売されている。
時代に応じて進化した畳は、偽物などではなく、お客様に親しまれる本物の畳なのだ。
この記事を通して総じて言いたいことは、本物と偽物という抽象的概念に惑わされず、自分にとって良い物とは何か、悪い物とは何かを考えることが重要であり、必要なこと。
みんなが本物だ!と言ったから本物だ!ではなく、自分の目で見て触って感じて確かめて欲しい。
最後に
本物とは何か。偽物とは何か。
そんなのくだらないです!というのが今回の内容でした。
世間の評価が低いものでも、自分が良いと思ったら良いじゃないですか。逆に世間の評価が高いものでも、自分が悪いと思ったら悪いで良いのです。
そうやって自分で価値を考えられる方が同調する人たちより何億倍もマシだと私は思います。
読んでいただき有難うございました。