男女の関係には3種類あるという。
1.恋人
2.赤の他人
3.奴隷
これは森見登美彦先生による短編小説「四畳半王国見聞録」の中で述べられていたことである。
この意見に私も大まかな部分で同意する。したがってこのまま解説していきたいのだが、人の言葉を解説するには正確な解釈が必要になる為、めんどくさい。
なので少し言葉を変えて私の意見で説明しようと思う。
男女の関係①依存性の最高地点
恋人とは恋愛関係にある相手を指す言葉。
そして男女の関係において恋愛関係とは「愛している」や「好き」という言葉を使って言い表せられる。
つまり恋愛とは、両方の想いを共有し、愛し合う関係のことである。
とはいえ、恋愛が永遠のものであるなら「愛し合う関係」にも納得するのだが、沸騰したお湯が冷めるが如く、恋愛は冷たい関係に変化することもある。
いくら愛し合っていても環境の変化で人間はいくらでも変容してしまうのだ。
したがって恋愛とは何か、一般的にはよくわかっていない。
恋愛とは何か
この壮大な哲学的テーマに私のような一介の職人が語るのは野暮なことかもしれない。
見苦しかったら飛ばしてもらって結構だが、私的に「恋愛とは何か」すでに答えは出ている。
恋愛とは、虚構であり依存性の最高地点だと私は思う。
現在よりも遥か昔、ゲームも無い、スマホも無い、映画も無い、テレビもない、依存性のあるものは極少数で限られていた。
依存性の強かった代表格は国。源平の合戦や戦国時代、第一次、第二次世界大戦を見てもわかる通り、国家に命を懸けて戦うほどの強い依存性があったことが推測される。
次に、通貨。初めは利子という金貸しから、欲望の資本主義システムが世界のスタンダードになるとお金の増殖を目的とした企業が生まれ、お金に依存した人間を創り出した。
そして、恋愛である。(俗に「恋愛」と「愛」は違うという言葉を耳にするが、私の中ではほとんど同じ概念である。また、この記事では性の感情も恋愛の一部に含まれることとして欲しい)
国、通貨、恋愛。これらは全てこの世に存在する確かなものではない。
姿かたちがなく捉えられない幻影。
つまり私たち人類が進化していく為に生み出した虚構である。
▼恋愛が虚構であることの説明を詳しく知りたい方はこちら:【エッセイ】愛とは何か?|旦那デスノートとカフカの変身
もっと言えば、虚構を真実だと信じ込ませ依存性を高くしなければ、我々人類が種を残そうと進化、いや生き残っていくことができなかったと私は思う。
したがって恋愛とは、人類が作り出した依存性の高い脳内薬物と言えよう。
このような話をすると「何を戯言を言っているのだ」と怒る方もいるかもしれない。
しかしだ。
「好きな人ができると仕事中でも頭から離れなくなる」「彼女彼氏のことを考えると眠れない」「振られると喪失感で何もやる気が起きない」という症状は、中毒症状や依存症に似た症状ではないだろうか。
進化していく為、子孫を残していく為、遺伝子レベルに組み込まれた依存性がそういった症状を出していると説明した方が自然だと私は思う。
しかし現実問題、恋愛が依存性の最高地点から下山してきているような気がする。(仮想通貨の登場により国家や通貨もまた同様である)
というのも、先ほど挙げた通りゲームやスマホなど依存性の高いプロダクトの登場により、恋愛に依存し難い環境になってしまったという事実。
結婚しない若者は社会問題化しつつあり、現状の変革が求められる。
男女の関係②無関心と嫌厭
赤の他人とは、関わりを持ちたくない人、もしくは興味がない人に対して使う言葉。
例えば「あの人とはもう関係ない!私たちは赤の他人だから!」とか「見ちゃダメよ!赤の他人のフリしなさい!」などによく使われている。
多くの場合、軽蔑的な意味で用いられているが、実際のところどういったものなのか抽象度を落として話をしたい。
無関心と嫌厭
「赤の他人」をもっと抽象度の低い話にすれば、「無関心」と「嫌厭」になると私は思う。
無関心とは、相手に対して関心がないこと。嫌厭とは、嫌って嫌がること。
これら二つは男女で少し違う感覚を持っている。
無関心で言えば、男性が女性に対して全くの無関心な感情というのは稀であり、顔の容姿に関わらず男性は女性に関心を抱いている。
ただ、関心を抱いていると言っても恋愛的な感情ではなく、容姿をバカにして笑い者にしたり、悪戯をして相手を困らせるなどの玩具的な感情である。
一方女性は無関心だと本当に無関心であり、興味のない男性の話は聞いてないし、覚えていない。
つまり男女で無関心の度合いが違うのだ。
また、嫌厭も同様に男女で違いが見られる。
基本的に男性は別れた彼女と険悪的な離別であったとしても心のどこかで相手の幸せを祈っているもの。
一方女性は「もう2度と顔も見たくない」などの悪口が止まらないほど徹底的に嫌う。
つまり男女で嫌厭する度合いも違うのだ。
したがって男女の関係を無関心と嫌厭と表現していても、男女で少し違う感情だと言うことになる。
男女の関係③隷属
奴隷とは、人間でありながら誰かの所有物として扱われているモノを指す言葉。
人権を無視した悪した行為である。
今では国連の世界人権宣言に則り奴隷制というものは禁止された。が、黒人の方や一部の女性に対しての奴隷的扱いは残念ながら無くなっていない。
今回挙げられた「奴隷」という言葉は、これらより相当ポップで少し違った意味のように思える。
例えば「女性は一人の王子様と沢山の騎士(ナイト)を作りたがる」という言葉がある。
「騎士」と呼ばれるとカッコよくて聞こえが良いが、一種の隷属した関係性であるのは間違いない。
つまり奴隷にしても騎士にしても本質は『隷属した関係性』にあるものだと私は思う。
隷属した関係性
隷属とは、付き従うことを意味する言葉である。
日本の諺にも「長い物には巻かれろ」という言葉がある通り、もともと人類は隷属性が高い生物だと言われている。
恋人関係になくても上司や先生といった、強権的な地位を利用して迫ってきた男性に、従わざる終えなかった女性は一定多数いるだろう。(最近では「me too」が話題になっているが、未だに町のあちこちでサイレントマイノリティは存在する)
男性は、女性を隷属させることで自らの欲求を満たし、自分のいる地位を確認したい。雄としての存在証明なのかもしれない。
こんな話をすると「なんて男は最低なんだ」と思うかもしれないが、女性の中には自らの地位の向上や欲求を満たすことを目的に好んで隷属される人もいる。
つまり隷属する側もされる側も生き残っていくための本能的な行動原理なのかもしれない。
ちなみに女性だって男性を隷属しようとする。
先ほどの騎士の話がそうだ。
騎士とは強くカッコいい尊敬に値する人物である。だから見下している存在ではない。
とはいえ、手元に置いておきたい駒であることに変わりなく、自分の言うことを聞いてくれる忠実な僕。何かしらの欲求を満たすガラガラ蛇と言ったところだ。
あまり学生の頃には見受けられなかったが、ビジネスの世界、特に女社長と呼ばれる方や、自分で経営している女性はこの気質を持つ方が少なからずいる。
男性社会という生きにくい社会で、男性を隷属し利用することが、生き残る唯一の方法だったのかもしれない。
男女の友情とは?
では、男友達や女友達と言われる男女の友情とはなんだ?という問いが生まれてくる。
私が考える男女の友情とは、隷属し合った関係のことを言う。
『隷属し合う』という言葉は本来有り得ないことのように思えるが、ビジネスの世界では全然有りえる。
仕事を貰うことで相手の言うことを聞く。
相手は、言うことを聞いて貰う代わりに仕事をお願いする。
主人と奴隷の立場が変わり、お互いプラスになる関係性、つまり隷属し合った関係性こそが男女の友情の正体なのだ。
とはいえ、ビジネス以外で男女の友情が成立しているケースも確かに存在する。
例えばスポーツ仲間やゲーム友達などの関係性だ。
しかし、それはあくまでコミュニティに依存した形での男女の友情で有り、たった二人だけの男女の友情は長続きしないことがほとんどだ。
ただ、男女の友情は稀に訳が分からないケースやLGBTの方の友情なども有り常に変化を遂げている。
新しい男女の友情の在り方が生まれてきてもおかしくはないだろう。
以上、男女の関係には3種類あるという話でした。
最後に
最後に一つだけ。
ガラガラ蛇には毒がある。
一方的に隷属させていると、噛み付かれることもある。注意していただきたい。
読んでいただきありがとうございました。