樋口裕介って誰?畳職人の自己紹介プロフィール【Yuusuke Higuti】
経歴
1992年、東京都出身。
2011年4月より京都市西京区にある沢辺畳店に丁稚奉公。京都畳技術専門学校に入学。
2012年から西脇畳敷物店が主催する未来塾に通学し、内装を学ぶ。
2014年からは未来塾の主任として活動。
京都パルスプラザで行われた京都畳競技会において2011年度、2012年度、2013年度、2014年度で京都府知事賞最優秀賞をおさめる。
2014年12月に京都畳技術専門学院を卒業。
2016年9月に畳製作一級技能士の資格を取得。京都の社寺をはじめとした文化財関連の工事に携わる。
2017年4月、約6年間勤めた沢辺畳店を退職して東京に戻り、畳職人をしながら当ブログサイト「Rush Artisan(ラッシュアーチザン)」を開設。
2020年屋号を樋口畳商店とし、江戸川区でお店を開業。

今回の内容は、私のプロフィール記事になります。1万字を超える長文ですのでご注意ください。

畳職人になった理由

畳職人になった理由。それは‥‥。

特にないです。

確かに、畳職人だった祖父に憧れたというのはあります。ただ、それが畳職人になった理由なのかは、今思い返してみればよくわかりません。

自分にはやりたいことがなかった。夢もなかったし、目標もなかった。唯一興味があったのが、物を作る(特に裁縫)ことでした。

私は昔から裁縫が得意で、家庭科の授業でボタンを付けるのは一番早く綺麗だったし、野球部のユニフォームで破れてしまった膝当てを付け直すのは、母より綺麗で早かった(小学生の頃から)。それに、面白かった。裁縫をしている時は、本を読んでいる時やゲームをやっている時に匹敵するほど集中力があり、無心になって取り組めた。

とはいえ、デザイン力があるわけでもないので、裁縫は趣味でいいかな。なんて考えていました。

畳職人になったキッカケ

高校生の夏休みに進路指導があった。大学には行きたくないと言っていた私に出されたのは、高卒生を採用したい企業の募集の紙束だった。

あの頃の私には、どれも魅力がないように見えた。どうすればいいのか悩んでいると、先生が親がやっている仕事だったり、親戚がやっている仕事を参考にしてみたらと言ってくれた。

その時、一番に思い浮かんだのが畳職人でした。

カッコよかった祖父のような職人ならなってみたい。畳を作ってみたい。そう思ったのが畳職人になったキッカケだったと思います。

畳職人ってどうやってなるの?

とはいえ、畳職人ってどうやったらなれるのか。高校の先生が調べてくれた情報では二つ方法がありました。

畳職人になる方法

①ハローワークで畳職人を募集している会社を探すこと
②畳の学校に通うこと

一つは、ハローワークで畳職人を募集している会社を探すこと、もう一つが畳の学校に通うこと。

この二つが畳職人になる方法だとわかりました。(正確にはもう1つあります。詳しくは「畳職人になるまでの過程」をご覧ください)

▼畳職人についてはこちら:畳職人になるにはどうすればいいの?|一級畳技能士になるまでの過程を紹介

高校の先生とも話し合い、畳の学校に通うことにした私は未だよくわからない畳の学校について調べ始めました。

畳の学校とは、伝統的な畳技術や知識を後世に安定的に継承していく為に設立した学び舎のことで、それを教えているのはその道のプロの技術者。なかには私がお世話になった修行先の社長のように黄綬褒章を受賞した方や現代の名工に選ばれている方などが先生として教えてくれています。

そういった畳の学校は、埼玉県、茨城県、福岡、そして京都。全国に存在します。なかでも京都は日本各地から集まる人気校となっていました。京都ブランドというのでしょうか。私もそれに魅力を感じ、京都畳技術専門学院への入学を決めたわけです。

▼畳の学校についてはこちら:畳の学校って知ってる?|京都伏見区にある京都畳技術専門学院を紹介 

ちなみに、京都畳技術専門学院の場合は丁稚制度があります丁稚制度とは、畳の学校(夜学)に通いながら昼間は畳屋で働くというシステムで、給料は貰えるし、日曜日は休みだしで、大変素晴らしいシステムになっています。

▼徒弟制度についてはこちら:徒弟制度とは?京都で修行した畳職人が徒弟制度の誤解について解説

詳しくは上の関連記事で紹介しているので、気になる方は参考にしてみてください。

六年間の畳修行in京都

京都で六年間、何をしていたのか。厳しい修行。汗と涙の日々。それはそれは大変な六年間でした。

と言うのはウソで、仕事が終われば飲み会だし、学校が終われば飲み会だし、土曜日は朝まで飲み歩きの日々でした。畳修行で辛いとか、苦しいとか、大変とかあまり思ったことはないです。

私は運が良かったのだと思います。沢辺畳店の皆さまをはじめ、同期、先輩、後輩、西脇先生や木村先生、奥田先生、藤本先生、井居先生をはじめとした先生方、楽園で出会った人たち。いい人に巡り会えたおかげで、何も大変じゃなかった。むしろ、本当に楽しかった。

六年間、畳職人をやめずに続けてこれたのは、京都で出会った素敵な人々のおかげだと思います。本当に感謝しています。

畳職人をやめてもよかった?

正直言って、畳職人という仕事が面白くなかったら、すぐにやめて東京に帰ろうと思っていた。俺は一生、畳で食べいくのだ!職人になるのだ!みたいな熱情は全く無く、あったのは面白かったらいいなぐらいの軽い気持ちでした。

実際、初めて畳針を手に取って縫ってみると硬くて痛くて怖い。よくこんなの縫えるなと驚いたのを今でも覚えています。それから少しずつ仕事を覚え、数をこなし、経験を積んでいくと、新しい仕事を任されるようになり、自分が着実に成長しているのが実感しました。

モノづくりは楽しい。そう思ったのは肌で感じる成長とお客様の笑顔のおかげかもしれません。モノづくりは誠意を込めて作ると結果が必ず帰って来ます。

自分に厳しくあればあるほど、それに応じてお客様は喜んでくれる。お客様が笑顔で喜んでくれると私も嬉しい。自己満足だったはずの技術が報われる。そんな感じです。

つまらなかったら畳職人をやめよう。いつからかそんな考えは消え去り、今目の前にある畳の仕事に熱中していくようになっていきます。

情熱は前にあるものではなく後からついてくるもの

これは誰の言葉か忘れてしまいましたが、本当にその通りだと思います。

面白くなかったら畳職人をやめてもいいと軽い気持ちで始めたことが、始めてみて面白い仕事だからもっと上手になりたい!お客様に喜んで欲しい!と情熱が湧いてきた。もしかしたら頭の悪い私がアレコレ考えるよりも、やってみることで理解するほうが全然効率がいいのかもしれません

何はともあれ、10代で楽しいと思える仕事に巡り会えたのはとても幸運なことだったと思います。

京都で学んだこと

京都で学んだこと。大きく分けて二つあります。

京都で学んだこと

①技術とは目に見えない箇所に使われている
②和室の空間とは何か

1つは畳の技術は目に見えない箇所に使われるということ。畳は敷き込んでしまえば、施工した箇所を見ることはできません。手抜きな作業をしようと思えばいくらでもできるわけです。

最近では、畳にタッカーを打ち込み、畳表を止める施工をする業者があると聞きます。

▼関連記事:畳表はタッカーで止めちゃいけない?|畳を糸で縫う理由

日本は雨量も多く、山に囲まれている為シケやすい気候の国です。湿気の多い場所に長年畳を敷き込んでいたらタッカーの針は錆びて取れてきてしまいます。

短期的な畳交換をする物件であれば、そのような施工も良しとしますが、長くお客様に使ってもらう為には、糸で締めるのが一番良い方法なのです。

つまり、畳の仕事をするうえで大切なことは、お客様に長く使ってもらう為にどのような施工をするべきか

、目に見えない場所にいかに技術を使うべきかということ。お客様に見えないからと言って適当な仕事をしない大切さを学びました。

二つ目は、和室という空間についてです。

京都では、古い昔ながらの日本家屋が建ち並んでいます。特に京都市内には町家と呼ばれる細長い家が多くあり、そこの畳替え工事を何度も請け負いました。

薄暗い照明、芸術的な土壁、和紙を使った襖、陽の光を優しくする障子、立派な床の間、そして中庭。どれもが文化的に価値のある物でありながら、それぞれが調和し空間を作っている。

私はそうした自然と人工的な手による融合が愛おしいものなんだと、京都に行って初めて知りました。是非みなさんも京都に遊びに行った際には、昔の日本人が作り上げた空間に目を向けて観光してみてください。

▼関連記事:和室とは何か?和室とはどんな部屋?|畳職人が考える和室論

余談。京都は家の中だけでなく、京都という町の空間もよく考えられて作られている場所です。花見小路通にしろ、宮川町にしろ、上七軒にしろ、石堀小路にしろ、京都という街並みが空間をも支配し自分が京都という空間に染まってしまうほどの力があります。

京都の大工は建てたい家を建てたのではなく、気候風土と町並みを考え空間をデザインした上で家を建てた。京都の大工は本当にすごい。せっかく京都観光に行くならそういう景色も楽しんでもらえたらと思います。

京都畳競技会

京都では、年に一回京都パルスプラザにて京都畳競技会が行われます。

京都畳競技会とは、若手の職人(学院生)が集い、決められた施工手順、制限時間、寸法、完成度を競い合うものです。競技会はあくまで個人競技であり、個々の能力を判断し、個々の優劣を決める大会だと言っていますが、実態はお店の威信を懸けた戦いになっています。

京都畳競技会で優勝することは、修業先であるお店の技術レベルの高さの証明になる。日頃お世話になっているお店への恩返しというと大げさかもしれませんが、そういった気概をもって競技会に挑む学院生は多いです。

【畳職人/Tatami 】職人技!畳製作一級技能士の畳を作る動画

こちらのYouTube動画は訓練生時代に撮影した畳製作練習風景を繋ぎ合わせた映像になります。床を切って、畳表を張って、縁を縫い付け、厚さを調整し、表を止める。

▼関連記事:どうやって畳を作ってるの?【畳職人の作業風景を見せます】

これが競技会ではヨーイドン!で行われるわけです。

普段、遊び歩いている学院生もこの時ばかりは真剣になって練習しています。(なかには練習サボってパチンコ行くヤバい先輩とかいたけど)

ちなみに2011年度、2012年度、2013年度、2014年度と四年連続で京都府知事賞優勝を飾ることが出来ました。(とはいえ、2014年以外はあまり満足のいく完成度ではなかったんですがね。)

京都畳競技会の難しさ、厄介さは、厳しい時間の中での完成度と寸分の狂いない寸法。この二つです。制限時間が厳しいので急ぐと針足が荒くなってしまうし、寸法にも若干の狂いが出てきてしまいます。

ただ、年々参加する毎に自分の癖を熟知してくるので、2014年はそれに応じた対策が機能したのかなと思います。何はともあれ優勝することができて、少なからずお店への恩返しができたのかなと思います。

2023年更新

畳競技会で優勝する為に重要なことは作業をシステム化することです。道具の置く位置、自分の動き、次の動作を全て頭と身体に叩きつけ覚えさせる。何回も何回も練習することでそれはシステムのようになります。

無駄な動きがなくなり洗練された動作がだけが残ると自然と時間を意識しなくても作れるようになります。畳の運針だの幅落としの角度だの返しわらの入れ方だのはその次です。

もし訓練生がこのブログを見てくれているのなら参考にしてみてください。

修行を終えて東京へ帰る

畳の修行期間というのは約4年で終わり、2015年4月からは職人という扱いで働いていました。残り2年(2017年4月)でお世話になった沢辺畳店からは卒業です。

それは修行期間だった時とは違って、将来的に職人としてやっていくのか、お店を持って畳屋を開業するのか多くの選択肢の中から自分の進路を考えなければいけない時期迎えていました。

「後継げばいいじゃん」って思った人もいると思うので説明すると、私の実家は元畳屋で祖父が亡くなった時にお店も潰してしまい今は跡形もない状態になっています。もし畳屋として起業するならまた一から機械も道具も揃えなくてはいけません。

畳の【機械・道具・材料代】は結構な費用がかかるモノで、最初にかかる設備投資を試算したら今の私ではすぐに払えないような金額でした。

仮に借りられたとしても、優柔不断な気持ちの中で返していけるのか正直自信がありませんでした。だからといってどこかの畳屋・内装店に勤めるのは意欲が湧かず否定的でした。

おそらく職人さん達の仕事に貢献したいという思いと自分の技術面以外のスキルアップを望んでいたからだと思います。

それで悩み結局、自分がどうしたいのかわからなくなって人生の選択で道に迷ってしまいました。

批判から見えた何か

真実が扉をノックするとあなたは言う。「あっちへ行け。私は真実を探しているのだ」そして真実は去っていく

ロバート・M・パーシグ

畳職人の仕事をしてると「綺麗になった、ありがとう」「新しい畳は気持ちいい」という言葉をよく聞きます。この仕事をしていて本当によかったと思える瞬間です。たぶん多くの畳屋さんも職人さんも同じ気持ちだと思います。

その一方で「畳って需要なくない」「職人って儲からないよね」という否定的な言葉を投げつけられることもあります。

特に若い同世代の人達からよく言われた言葉です。

なんでそんなことを言われなきゃいけないんだ!

と腸が煮えくり返る気持ちでしたが「喜んでくれるお客様がいるんだから関係ない」とそんな意見は無視してきました。でも、もしかしたらこれも一つの意見でなのでは・・・・。これらの言葉は何か大切なことなのかもしれないと考えるようになりました。

需要がない、儲からない原因ってなに?

畳の需要がない、儲からない理由とは何か。

畳の需要は平成29年の現在から10年前の平成19年で1/10に減少したと言われています。それにともなって国産「い草」の需要も大幅な減少となっています。

農林水産省の統計データによると全国のい草農家戸数の推移の変化は平成元年に8578(戸)あった農家戸数は平成28年522(戸)まで減少してしまいました。

▼い草についてはこちら:有名ない草の生産地はどこ?|国産い草の機能と現状について解説 

なぜここまで畳の需要(い草農家)が減少したのでしょう。