私は25歳くらいからツイッターを始めた。
18〜19歳ぐらいの時に、友達の間で流行っていたのを考えるとかなり遅いスタートになる。
ツイッターを始めた理由も自分で事業を起こしたことがきっかけ。
これからはオフラインだけでなく、オンラインの活動も必要だと思ったからだ。
とはいえ、オンラインの活動はツイッターに限定されるものではない。
例えばブログ。
ブログとは、WEBサイトの一種で、ホームページ上に簡単に表示できるログのことだ。
ウェブにログする→ウェブログ→ブログとなったと言う。
ブログには他者からのコメントを付ける機能も備わっているが、私は付けていない。(というか付け方がわからない)
まぁ相手からの返信も気にならないし、一方通行で意見を言えるので、コメントを付けなくても別に良いと思っている。
一方、ツイッターはリプライなる相手方からの返信機能が備わっている。
つまりツイッターは、280文字という限られた文章の中で議論し合うことが目的の言論プラットフォームとなる。
では、ツイッターとは新しい時代の言論空間なのだろうか。
激昂するツイッター民
日本人は議論が苦手と言われている中で、自分の意見を言える場所、相手の意見を聞く場所があることは、とても素晴らしいことだ。と思う。
そういう意味においてツイッターが果たしている役割は非常に大きいと言える。
ただ、ツイッター内を探索するなかで、過剰に激昂した議論が散見される。
政治の問題、女性蔑視、個人の持論。
政治や女性に関しては被害を受けている方がいるから、激昂しても一部納得する。が、個人の持論に激昂する人は意味がわからない。
というか、なぜそんなに他人に対して興味があるのか理解できない。
例えば、あなたが居酒屋で友達とお酒を飲んでるとする。
二人組のおじさんが隣の席で話している会話に、あなたは興味が湧くだろうか。もし、気になる話題だったとしてもあなたは激昂するだろうか。
私は、おじさんたちの会話に興味もないし、怒ることなどありえない。というか、目の前の友達の話で精一杯だ。
とはいえ一定多数「おじさん達の話には興味があるけど・・・。聞くだけかな」という方や、「会話に混ざって自分の意見を言いたい」という方もいるかもしれない。
でも、怒るという人は圧倒的少数だろう。というか、怒る人が圧倒的多数の社会であれば、それこそ社会問題になっている話だ。
居酒屋に行ったら、そこら中で喧嘩が始まり、隣の席同士で「お前の意見は間違っている」と叫んでいる。
考えただけでもカオス。火事と喧嘩は江戸の華と呼ばれた江戸時代にタイムトラベルした気分になる。
いや、もしかしたらそうなのかもしれない。
つまり、ツイッターはまだ江戸時代であり、ツイッター民は気性の荒い江戸っ子。
だとしたらツイッター民同士での口論は華なのかもしれない。
そのように再認識すれば、全てが納得する。
とはいえ、立派な髷を結って、振り回した事もない刀をさげてるお侍風情の荒くれ者と付き合うのは、骨が折れそうだが。
自己啓発系ツイッター民
私もツイッターを開始する前、ツイッターとは何を呟く場所なのか、マーケッターのツイートを見て少しだけ勉強した。
彼らの多くは自己啓発系ツイートに溢れ、現代社会の生き方を伝授する教祖様的地位を確立していた。
自己啓発(じこけいはつ)とは、自己を人間としてより高い段階へ上昇させようとする行為である。「より高い能力」、「より大きい成功」、「より充実した生き方」、「より優れた人格」などの獲得を目指す。
未来に対する不安を抱えた若者、もしくは何かしらの息苦しさを抱えた社会人に響く言葉を発信する。
マーケッターの人たちは、悪魔的な才能を持っていると思った。
とはいえ、あくまでビジネスでやっていることだから誹謗中傷、批判は一切ない。
ただ、盲信する信者には言いたいことがある。
かつてファシストは次のように主張した。
「精神的に無防備になった相手を説得すべき」(幼女戦記から)
人は弱ってる時、何かに縋りたくなる。
誰も助けてくれない。自分は孤独だ。目の前が真っ暗で先が見えない。地面がグラグラでいつ崩壊するかわからない。
このままではマズいことになる。なんとか今の状況を変えないと。
不安定な状態ほど、まっすぐな言葉は心に響く。
ブログを書いた方がいい!YouTuberになった方がいい!フリーランスになった方がいい!誰でも頑張れば成功するよ!。
一時的な成功はあったとしてもブームはあくまでブーム。いつかは終わる。
もしブームが去ったあと、あなたはどうしますか。教祖様に助けてもらいますか。
私の予想ですが、教祖様は助けてくれないと思います。彼らがしていることはあくまで地位の確立であり、人助けではないから。
では、どうすべきか。
悩んで、失敗して、怒られ、また悩んで、失敗して、怒られる、これをひたすら繰り返す。
大切なのは、自分で決めて、挑戦して、悩むことだ。
もし、ここがジャングルなら、食べ物を分け与えてくれる動物も、自分を食べずに見逃してくれる動物も存在しない。
食うか食われるかの世界に私たちは立っている。
つまり、自分で生きていくしかないのだ。
それをわかってて教祖様に賛同しているなら文句はない。知らなかったのなら後悔する前に考え直すことをお勧めする。
月〇〇万稼いでる系ツイッター民
ツイッターを散見すると、「月〇〇万稼いでる」と豪語するツイッター民がいる。
ツイッターを始めて、これが一番驚いた。
普通いくら稼いでるかは言わない。
法人ならまだしも、個人なら税務署に目をつけられるし、集ってくる迷惑な連中もいる。
おそらくは、本当にその金額を稼いでいないか、海外暮らしで関係ないか(非居住者は国内源泉所得のみ)、のどちらかだろう。
どちらにしても、「月〇〇万稼いでいる」がマーケティングとして使えるなんて知らなかったし、「月〇〇万稼いでいる」の文言で目を輝かせる人がいるんだと驚いた。
私たち職人の世界でお金の話をする人はあまりいない。というか、仕事量よりやっている仕事の質に関しての話が多い。
例えば、マンションやアパートの仕事で儲けたとする。
しかし、それでは誰からも評価されない。(むしろ批評される)
一方、一年通して社寺の仕事を請け負ったとする。
一年通してだからさほど儲けは出ないが、周りからの評価はうなぎ上りで上がっていく。
だからといってお金を稼ぐことを軽視しているわけではないが、お金を稼いでいることで人間を評価することは、ほとんどありえない。
しかし、ツイッターの世界は違うらしい。
お金を稼いでいる=評価するべき人物と、結んでいる。
そういった人たちはオフラインでも、人間の中身で判断するのではなく、稼いでいる金額で判断するのだろうか。
もしそうなら、これからは名刺に売り上げ月〇〇〇万(赤字)とか書いた方が信頼されるのだろうか。
売り上げで判断するのなんか銀行員だけで十分な気がする(銀行員曰く、数字にない部分も精査対象にしているらしいが・・・。)
道徳を語るツイッター民
15世紀にグーテンベルクの活版印刷機ができ、ヨーロッパ中に聖書が配られるようになった。
これにより国民の間で道徳意識が芽生えたと言う。
時代は変わって現在。
テクノロジーの進化から情報の伝達速度が爆発的に加速し、誰もがスマホで簡単に情報を入手することができるようになった。
これにより人々の道徳観を共有し、道徳意識が高まった。
グーテンベルク聖書の再来といったところか。
冗談はさておき、インターネットが、「正しいとは何か?」「間違っているとは何か?」を思索するきっかけになったのは言うまでもない。
とはいえ、昨今の道徳的行動に少しだけ違和感を覚える。
例えば、有名芸能人の発言に、道徳的な危うさを感じたとする(具体的な事例は挙げないが日曜日などによく起こる)
すると、ツイッターではみんなで有名芸能人の発言を共有し、一斉に叩く。
「こんな発言をする芸能人がテレビに出ていることが許せない。だからツイッターで晒してみんなで叩こうぜ。」とでも言っているかのように。
ツイートをしている(リツイート、いいね押し含む)みんなは、これを道徳的な行動だと間違いなく思っている。
もっといえばコメントを出す、リツイートボタンを押す、いいねを押すことで、有名芸能人の不誠実さを改心させようと企んでいるようにも思える。
しかしだ。
「相手の言っていることが間違いで、自分の考え方が正しければ、みんなで共有して叩いても良い」これが道徳的行動なのだろうか。
いくらツイッターのシステムがそうであったとしても悪用と呼べるのではないだろうか。
道徳とは何か?
私はまだ知らない。
ただ、子供に教えられないことは「道徳的」だとは言えない。と私は思う。
「間違っていることを言う人はね。みんなで晒して、ボコボコに叩いてあげよう。そうすれば彼は反省するわ。二度と間違ったことは言わないようになるの」
もしかしたら、これを正しいと思い、子供に教えている親もいるのかもしれない。
それなら教えて欲しい。あなたにとっての道徳とは何かを。
最後に
SNSを活用して、少しでも仕事に繋げたい。
そう思って始めたツイッターだったが、予想以上に政治色強め、ビジネス色強め、思想色強めが多くてついていけないのが本音。
フォロワー数多い人のツイートも全く共感しないし、どういった人物なのか興味もわかない。
たぶん私は、畳作って、ブログ書いてるのが一番合っているということだろう。
読んでいただきありがとうございました。