みなさん、こんにちは!畳職人の樋口です。

 

今回は畳の歴史についてご紹介したいと思います。

 

1300年以上の歴史を歩んでいる畳。その遥かな時間の中で、ほとんど姿形変わらずに現在も存在しているのは『物』として極めて奇跡と呼ぶに等しいと私は思います。

 

そこで今回は知られざる畳の歴史について、畳が世間一般的に広まった理由なども織り交ぜながら紹介したいと思います。

 

 

畳の歴史が知りたい!畳が何故広まったのか気になる!という方の参考になれば幸いです。

畳年表でみる畳の歴史

 

200年頃〜 弥生時代 畳の材料である「い草」を使って莚(むしろ)が作れていた。
724年頃〜 奈良時代 聖武天皇が使ったとされる最古の畳「御床畳(ゴショウノタタミ)」がこの頃。
800年頃〜 平安時代 畳は権威の象徴して皇族や貴族しか利用できなかった。使われ方は床材ではなく座具やベットのように使われていた。
1200年頃〜 鎌倉時代 これまで座具やベットのような使われ方をしていた畳ですが、座敷(畳を敷いた部屋)が増えてきて、畳が床材として使われるようになりました。この時代の畳職人の呼び名は「畳刺し」「畳差」でした。
1587年頃〜 安土桃山時代 畳にとってのパラダイムシフトが起こる。茶人千利休が侘び茶を大成させ、お茶室に畳を敷く。茶道が一般に広まると今まで高貴な人しか使えなかった畳が一般家庭に普及する。
1603年頃〜 江戸時代 江戸に幕府が開かれると急ピッチで街が作られていきます。京から畳職人の名家「イアナミ家」に来てもらい畳製作も急ピッチで行われる。その功績が認められ「イアナミ家」は「大針家」という名をいただきます。数多くある畳業を管理する為「畳奉行」が設けられる。
1883年頃〜 明治時代 明治維新後、欧米列強と肩を並べる為、富国強兵をし、西洋建築を多く取り入れるようになった。ですが完全な西洋建築というより和室に絨毯を敷くといった和洋折衷の建築が主だった。
1960年頃〜 昭和時代 戦後の復興から高度経済成長を迎え、新築が急増した。畳機械も普及し、生産性が上昇。畳業界の最盛期を迎える。
1990年頃〜 平成時代 バブルが崩壊し、高度経済成長は終焉。新築が急減し、マンション、アパート、集合住宅が人気となる。それに伴って畳の需要も低下し、大量生産からの価格競争が起きたことにより、低価格の畳が主流になる。

 

弥生時代

 

学校で教わった歴史の教科書によれば、弥生時代において中国や朝鮮半島から海を渡って日本に伝わったものは数多くあると記述してあります。(稲作や土器なんてのは有名ですよね)

 

実は、畳の材料でもある「い草」もまたこの弥生時代の頃に、インドからシルクロードを経て中国に伝わり、日本に持ち込まれたと言われています。

 

ただ、この点については誤解も多少あるので少し説明させてください。

 

確かにい草はこの弥生時代の頃に中国大陸から伝わったと言われていますが、上敷き(ござ)と呼ばれる敷物は弥生時代よりも前から存在したと言われています。(遺跡からは莚や菰、藁を編んで作った上敷きが発見されている)

 

現在使われている上敷きとは編み方も形状も少し異なるものではあったみたいですが、上敷きの原型となるものと見て間違いないだろうと思います。

 

したがって、敷物文化はもうすでに日本にあった可能性があるわけです。い草の上敷きは大陸から伝わったとみて間違いないですが、上敷きという敷物は日本独自で作られたかもしれない。その点は今もなおわかっていないことは伝えておきたいです。

 

また、誤解繋がりでもう一つよく言われている誤解を訂正しておきます。

 

い草の上敷きが中国大陸から伝わったことを受けて、畳も中国から伝わったという説が一部の考古学者の間で議論されていますが、上敷きと畳を一緒くたにして議論するのは可笑しな話になります。

 

そもそも上敷きと畳は別物であり、それぞれ定義も違います。

 

上敷きとはい草などを編み込んで作った敷物のござであり、畳とは畳床という土台の上に畳表を貼り付けてヘリを縫い合わせた敷物です。

 

今の時代でも畳を注文して上敷きが来たら「それ上敷きじゃん。私頼んだの畳ですけど・・・。」ってなるのと同じように、1000年前でも畳と上敷きは別物として扱われてきました。

 

つまり、い草の上敷きが中国大陸から伝わったからと言って、畳が中国大陸から伝わったものではないという事ですので、考古学者の方々にも、この記事をご覧の皆さんにもお間違えないようにお願い致します。

 

▼い草についてはコチラ:有名ない草の生産地はどこ?|国産い草の機能と現状について解説

 

奈良時代&平安時代

 

畳に関する記述は712年頃に編纂された『古事記』にありました。

 

「菅畳八重」「皮畳八重」という現物が残っていない畳であり、はるか昔の皇族や貴族が使っていたようです。日本に現存する最古の畳は、奈良県の東大寺正倉院にある御床畳(ゴショウノタタミ)というものです。

 

御床畳(ゴショウノタタミ)は約720年頃ぐらいに作られたとされ聖武天皇が使っていたと言われています。

 

御床畳がどういったものであったかというとマゴモを4〜6枚くらい重ねて、い草をまいて錦の縁を付けた高貴なものでした。

 

それは御床畳に限らず、昔の畳というのは皇族、貴族が寝床に使い縁(畳の幅についてるモノ)で格式を表していたので、少なくとも一般の庶民が扱える敷物ではありませんでした。

 

ちなみに、格式の名残は現在でも残っていて、高貴な寺社には数種類の中から部屋ごとの格式にあった紋縁を使用しています。

 

 

繧繝(うんげん)縁

 

これらは皆さんが一般的に思っている畳とはイメージが多少違うかと思いますが、昔の畳はむしろこちらの方が多かったわけで、このような畳のことを我々は有職畳(有職の畳)などと呼んでいます。

 

この有職畳にもそれぞれ名前があるのですが、それを説明すると面倒なのでまた今度違う記事でご紹介したいと思います。

 

ちなみに畳の語源ですが、畳は使わない時に折り畳んでいたことから、「たたみ」になったと言われています。今でこそ『畳』はこのような漢字を書きますが、昔は『疊』こちらの漢字を使用してしました。

 

広げたものを畳んでいる姿の象形文字だと言われているのですが、事実はどうなのでしょうね。

 

諸説あるのでまた調べてみたいと思います。

 

鎌倉時代&安土桃山時代&江戸時代

 

鎌倉時代になると武家屋敷の中で座敷が増えていきます。お座敷というと舞妓さん遊びをイメージしがちですが、この場合の座敷は武家屋敷にある畳を敷いた居住空間の呼称です。

 

この鎌倉時代辺りから畳は皇族や貴族だけではなく武家の間にも広まっていくことになります。またこの頃ぐらいから畳を作る職人のことを畳刺し師と呼ぶようになり、一般的にも仕事として知られるようになっていきます。

 

そして。

 

室町時代、安土桃山時代を迎えると畳における大きな転換点を迎えることになります。

 

畳が広まった理由は茶道?

これまで寝殿造が主流だった日本の建築様式ですが、武家の身分が台頭してきたことにより書院造が広まっていくことになります。

 

書院造とは銀閣寺を以って説明しますが、『個(または小規模な複数)』の人と接する空間でありながら勉学に励んだり、華道などを嗜んだりする為に発展した武家の様式だと言え、その後の和室という空間に大きな影響を与えた造りでもあります。

 

室町時代初頭にはこういった書院造の家が急激に増えていったことにより、畳も武士達の間で広まっていきます。

 

とは言え、それは武士の話であり、一般的に畳が広まったのは安土桃山時代の頃。千利休が畳を敷いた茶道を広めると同時に、一般の人達に畳が一気に普及していきます

 

 

茶道を通して畳という敷物が広く認知され一般化していった。まさに畳業界のパラダイムシフトと呼ぶべきことだと思います。

 

 

 

畳業界のパラダイムシフトが起きたことにより、畳に求められる技術にも変化が起きます。

 

これまでの畳は座敷に敷くだけであった為に、敷き詰めることへの技術力はそれほど重要ではありませんでした。茶道が生まれ、狭小の空間が好まれると畳を敷き詰めることへの技術力はもっと求められるようになります。

 

さらに、茶道の作法から重要視される畳の目。一般的な畳であればそれほど畳の目は重要視されませんが、茶道は違います。

茶道をやっている人はわかると思いますが、茶道は畳の目によって手の置く位置、道具の置く位置が決まります。畳の目がブレてしまっては茶道の作法に支障をきたしてしまう為、これまで以上に畳職人は技術を磨く必要がありました。

 

こうして私たちの知る畳になっていったわけですが、江戸時代ぐらいから畳表の品質についてもこだわる人々が出てきます。

 

実はこんな逸話が1つ残っています。

 

外様大名であった福島正則は、天下の将軍である徳川家康に対して備後の畳表を献上したそうです。その備後表の美しさに徳川家康も感動したと言われています。

 

それ以来、備後表は日本一の畳表だと言われ、つい最近まで最高級畳表の代表として知られていました。(現在の備後表は残念なことに、い草農家さんが数人しかいない(高齢化)ので、受注生産でしかほとんど作られていない。それでも品質は今も最高峰ではある)

 

※備後の中継ぎ

 

こうして畳表の品質も向上していくことになります。

 

余談ですが、江戸時代の有名な話で忠臣蔵での増上寺の畳200帖を一晩で表替えするという話があります。吉良上野介が浅野内匠頭に嫌がらせしようと「増上寺の畳を一晩で替えろ」と無理難題を言ったことから浅野内匠頭は部下に命令して江戸中の畳職人を集める。なんとか皆の努力の甲斐もあり、一晩で200帖全ての畳替えを見事完了するといった忠臣蔵のワンシーンです。

 

畳職人からしたら迷惑な話ですが、職人の一大イベントとしては胸高鳴る高揚感も確かにあります。

 

今の時代、個人で畳の仕事をするのが当然ですから東京の畳職人が集まって仕事をするなんてちょっと楽しそうだなって思います。(京都でも良いのですが・・。)

 

ところで、実はこの話フィクションらしいです。私も最近知ったのですが、本当は一晩での畳替えなんて無かったそうで、忠臣蔵を面白くする為に盛られた作り話らしいです。

 

ちょっとだけ残念です(笑)

 

明治時代&昭和時代

 

そして江戸時代が終わると次第に生活様式が変化していきます。誠に小さな国が大国と肩を並べようと、西洋式の洋館を作り始め、少しずつ和室から洋室に変わっていったのです。

 

このような話をすると、畳職人は明治の文化を否定的に捉えていると勘違いされそうで恐ろしいのですが、私個人的には明治の頃に建てられた西洋建築は素晴らしいと考えていますし、和洋折衷の生活様式は日本文化らしいと絶賛しています。

 

日本は昔から和の精神として、良い物は他の国の文化であっても吸収して形にしてきました。この和洋折衷の様式も和の精神だと思えば素晴らしいものであると思います。

 

また、日本の建築技術は西洋建築においても優れたものでした。

 

その代表的なのが赤坂迎賓館です。

 

赤坂迎賓館とは東京都港区元赤坂にあるは、外国の国家元首や政府の長などの国賓を迎え入れたときに、宿泊等の接遇を行う施設。

 

赤坂迎賓館を生まれて初めて見た時、圧巻と呼べる美しく煌びやかな装飾、細かい細部まで行き渡った職人技術、色塗りの技術など驚きを通り越して感動しました。日本建築も良いけど、西洋建築も凄くいいなと思うキッカケとなった建築物です。

 

しかし、残念なことに元東京都知事の舛添要一氏や文化財に携わる人の中には、赤坂迎賓館に対して凄く否定的な意見があります。

 

赤坂の迎賓館は西洋式で、悪く言えばベルサイユ宮殿のまがいごと。東京五輪までに東京都民が外国の方々をおもてなしできるような伝統的な日本的な迎賓館があることが望ましい

舛添要一氏の発言

 

否定するのは個人的な主観なので仕方ないですが、その人たちが京都迎賓館を引き合いに出して比べるのには腹が立ちます。

 

そもそも赤坂迎賓館と京都迎賓館とでは、建築された経緯が異なります。赤坂迎賓館は明治42年(1909)に建設され、東宮御所として作られた背景があります。つまり皇族のお住まいです。

 

一方、京都迎賓館は国家元首を招く目的で建てられた建築物です。同じ迎賓館と名はついていますが、経緯が全く違う建物をどうして比べるのでしょうか。

 

私には理解できません。

 

それに赤坂迎賓館はアジア周辺国ではお目にかかれないほどの建築技術です。当時の技術を総結集して作った赤坂迎賓館は小さいベルサイユ宮殿と称されるほど、最高の西洋建築なのです。

 

東京都知事だろうが、文化財の会員だろうが、口軽く否定するべきものではない。と私は思います。これからも大切に守っていくべきだと改めて申し上げます。

 

 

激動の昭和

 

変革の明治、激動の昭和をむかえると清や欧米列強との間に溝が生まれ、日本は戦争への道を歩むことになります。しかし、太平洋戦争に突入すると日本国土に爆弾が落とされ家や木、人も焼き払われる悲惨な状態と化しました。

 

結果は日本の敗戦という形で戦争が終わり、残ったのは焼け野原になった土地と悲しみだけでした。

 

国民が悲しみに打ちひしがれる中で、復興を支えたのが建設業と建築業でした。

 

焼け野原になった街を整備し直し、新しい建造物を次々に建てていきます。わずか数十年です。東京は焼け野原から世界最高ランクの都市と呼ばれるまでに成長していきます。

 

1955年頃、日本は高度経済成長をむかえます。それにより新築がバンバン建っていき、畳の需要も最盛期をむかえます。畳需要の増加が機械のオートメーション化を加速させ、その結果多くの畳屋経営は大量生産型にシフトするようになりました。

 

道も整備されていくと地域密着型から少し離れた場所もターゲット層に入り、畳業界にも競争が生まれていきます。とはいっても畳の需要が増加傾向にあったので、競争と言ってもそこまでの心配はありませんでした。

 

しかし高度経済成長が終わり、和室の需要が減少していくと市場原理に従って価格競争にはしる畳屋が増えていったのです。

 

その結果、競争に破れた畳屋は倒産。

 

激動の昭和が終わる頃には、競争で激しさを増した畳業界の激動の時代が始まることになります。

平成時代

 

平成時代に入ると畳業界にも革新の動きが見え始めます。オーソドックスな畳の形から様々な形の畳へ変化させようと挑戦する畳屋が増えていったのです。

 

代表例が縁無し畳です。

 

 

縁がついてない畳を正方形に施工し、縦横の市松で組み合わせることにより、光の反射でデザインする畳です。

 

今まで畳に敬遠していた人たちを引き込み、昔からの畳の固定概念を変えました。

 

 

すると天然い草を使わず、和紙、化学表を使っての縁なし畳も登場します。これにより店舗やホテルなどと言った今まで畳と縁が無かった業種とも繋がるようになります。

 

また、平成後期に入ると四角形の畳から三角形や台形の畳も登場してきます。

 

職人技×デジタル 「デザイン畳」を世界へ

形や色、畳のスタイルも変化しています。

 

それに伴い畳屋の経営スタイルも変化していきます。餅は餅屋。畳は畳屋。なんて考え方から畳屋のサービス=「畳・襖・障子・内装各種」に多角化していきます。

 

今では多くの畳屋さんが畳以外のサービスを行なっています。

 

畳と共に経営スタイルも変化していく。まさに伝統は革新の連続ということでしょうか。

 

▼新しい畳についてはこちら:畳の素材はい草だけじゃない?|畳縁や和紙表や化学表が変える和室

 

令和時代

令和時代に入り、畳も更なる進化を遂げています。

 

 

龍の畳つくってみた 09 〜龍との格闘4時間を4分でご覧ください〜

 

畳が一つのアート作品になる。

 

こういった畳の可能性が広がっていくのが令和時代だと私は思います。

最後に

 

畳とは?畳職人が畳を語る

 

いかがだったでしょう。

 

畳の歴史は理解できたでしょうか。

 

無駄話が多かったと思い反省していますが、畳について少しでも多くの人に興味をもってもらいたい気持ちの表れです。

 

勘弁してください(笑)

 

 

読んでいただきありがとうございました。

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