
京都市の黄綬褒章受章店「沢辺畳店株式会社」にて長年修業を積み、東京都江戸川区で独立。 京都畳競技会にて最高賞の「京都府知事賞」を受賞。神社仏閣や茶室、屋形船から一般住宅まで、1ミリの隙間も許さない「京都仕込み」の技術で江戸川区を中心に活動中。
- 📺 メディア出演:TOKYO MX「バラいろダンディ」畳職人として出演
- 🏫 地域活動:練馬工業高校にて畳の文化・技術に関する講演会講師を担当
「お店がない畳屋」でした
私は独立した頃、
自分の店を持っていませんでした。

お客様の家にブルーシートを敷いて、
いただいた畳台を置いて、
針と糸だけで畳を作っていました。
足りない道具はホームセンターで木を買って、自分で作る。
軽トラックすらレンタル。
今思えば、かなり無茶だったと思います。
仕事がない時は、他の畳屋さんの下請け仕事をしていました。
それも無ければ、他の畳屋さんのゴミ処分を代行することもしていました。
でも、本当に辛かったのは「仕事がないこと」ではありません。
一番きつかったのは、
「忙しいのに稼げない時期」
でした。
毎日10時間以上の肉体労働。
夜は交流会の飲み会。
朝6時からは「朝活」という名の異業種交流会に行く。
それでも、1ヶ月の売上は17万円。
正直、何度も辞めたくなりました。
本当に地獄みたいな日々でした。
そんな中、今でも忘れられないお客様がいます。
埼玉県大宮のお客様です。
知り合いの建築士さんが紹介してくれた仕事で、お客様の家にブルーシートを敷いて畳を作りました。
まだレンタカーの軽トラックで動いていた頃です。
すると、お客様が畳を作っている様子をずっと見てくれていました。
そして、すごく喜んでくれた。
その時、初めて思いました。
「作業って、エンタメになるんだ」
と。
畳を作る姿そのものに価値を感じてくれたことが、本当に嬉しかった。
いただいたお金が、とても重く感じました。
帰り道、レンタカーの中で大声で歌を歌いながら帰ったことを、今でも覚えています。
なぜ続けられたのか。
それは、中途半端が嫌いだからです。
勝負事だから、負けることもある。
でも、全力を出したなら仕方ないと思える。
ただ、あの頃の自分は、まだ全力を出していなかった。
「自分はこんなもんじゃない」
ずっとそう思っていました。
いや、自分を信じたかったんだと思います。
最初は8畳しかなかった店も、今では13.5畳まで広くなりました。

とはいえ、その頃の店は雨が降ると店の中に雨が入ってくるような造りでした。

分厚いカーテンを付けて、畳を雨から守っていました。
京都の畳屋さんから、使わなくなった機械や道具を譲っていただき、少しずつ、本当に少しずつ前に進みました。

中学の同級生にも手伝ってもらいながら、今の樋口畳商店があります。

振り返ると、あの3年間は本当に地獄でした。
遊びたい。
デートしたい。
寝たい。
そう思うこともたくさんありました。
でも、それを全部捨てて走り続けたからこそ、自分は成長できたと本気で思っています。
今でも、自分はまだ途中だと思っています。
もっと上手くなりたい。
もっと良い畳を作りたい。
もっと、お客様に喜んでもらいたい。
だから、今日も畳を作っています。
