古文漢文の授業不要論は、日本社会が貧しくなってきた証拠

 

 

ネットでは、古文漢文の授業不要論が話題沸騰中ですね。

 

古文漢文いらねーよ。受験科目にするな!。社会に出ても使わねーよ。など古文漢文に対しての批判を集めています。

 

一方で、高等教育なんだから古文漢文を学ぶのは当然じゃない?。受験科目として言うほど点数高くないでしょ(難関校ほど点数高いらしい)。古文漢文不要論者は合理主義者。など古文漢文の授業を擁護する者もいます。

 

私の意見としては、必要、不要どっちでもいいのですが、古文漢文の授業不要論が巻き起こるのは、日本社会が貧しくなってきた証拠だなと感じています。

古文漢文の授業不要論は、日本社会が貧しくなってきた証拠

そもそも社会が豊かでない時代は、社会の役に立つことしか学ばなかった。戦国時代なら犠牲を少なく、沢山の人を殺せる戦術とか、農民平民からお金を巻き上げる為の金勘定とか。豊かでない社会の中では、生きていくのに必要な知識しか必要なかったわけです。

 

それから社会が豊かになっていくにつれて、様々な学問を習得することが大事なことだと思われるようになりました。それこそ社会に出て使わないような知識であっても、好奇心→学ぶ→忍耐=大事なこととして捉えられるようになったのです。

 

日本社会が豊かでは、なくなってきている

社会において使わない学問(古文漢文を筆頭に、一部数学や一部日本史)は減らし、社会において使う学問(主にお金の授業や性教育など)をもっと増やすべきだ。といった意見が近年増加しているように感じます。

 

これは日本社会が豊かでは、なくなってきた証拠だと思います。

 

日本社会の未来が、先行き不透明で明るい兆しが見えないから、将来役に立ちそうな知識を学ばせたい。プログラミング教育や英語教育などを積極的にやらせるのは、そういった将来に対しての不安感によるものでしょう。

 

社会を生きていくのに関係のない知識はどんどん省いていき、社会で生きくのに必要な知識を積極的に学ばせる。それはかつて貧しかった頃の日本への回帰、この地は基点なのかもしれません。

 

時代には波があります。豊かな時もあれば、貧しい時もある。貧しい時には貧しい時なりの勉強方法を考えるのも、生きていくのには大切なことかもしれませんね。

 

以上、古文漢文の授業不要論は、日本社会が貧しくなってきた証拠でした。

 

エッセイ記事はnoteで書いています。

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